「バカマンコ」ツイートはなぜバズる?①

https://twitter.com/i_love_japan/status/1291395552626610176?s=21

 

 このツイートを見て、私は強い憤りを覚えた。援助交際をする少女らの背景を見ず、安全圏から女を見下し嘲笑い、「ネタ」として消費されていること。

 

 リプ欄には「男に買って貰ってるんだから感謝しろやくそまんこ」「被害者面するまんさん(笑)」などというミソジニーに溢れていた。

 

 ミソジニーを発露させた彼らには、援助交際をする少女の動機の語彙に「ブランド品を欲しがるがゆえに身体を売った」「快楽のために身体を売った」などという拝金主義や性的承認を少女に見出した。が、はっきり言おう、それは極めて浅く薄っぺらい考えである。

 

 援助交際をする少女の背景には、幼少期の性的虐待経験や機能不全家庭がある。 私はここでフロイト的な分析を提供しようと思う。

 

 父に期待された娘は「父の娘」となる。父に同一化し、父に変わって家長としての責任を受け負おうとする。しかし自分は女であるという事実から自分の持っている身体への憎悪を生み、同じ性である母にそれが向けられる。

 

 父の娘である少女が援助交際をすることは、母への処罰でもある。これは「自分が父と完全に同一化出来ないことを知り、同一化を妨げる女性身体を処罰する」という点で「自罰」である。その一方で同性である母も処罰する「他罰」でもある。

 

 父の娘である被虐待者の少女は、父に対する反発と侮辱として援助交際をする。父親世代の「客」を父の代理人としてみなし、セックスをする。このような否定的アイデンティティ形成のなかで援交少女たちは父親を復讐するのである。これは父への「他罰」である。

 

 しかしこれらの「自罰」「他罰」は自傷やつうじてしか遂行されない。

 

 すなわち援助交際とは、父と母の分身である自分を傷付ける自傷行為によって父と母に復讐するというものなのである。

 

 自傷行為もこの「復讐」のひとつであるといえる。自傷とは自罰行為である。自傷者は自罰行為を通じて父と母を罰する。近代リベラリズムの人間観では自己身体は私有財とみなされている。つまり自己身体を通じた父と母は私有物であるともみなすことが出来る。

 

 ここから言えるように、援助交際の動機の語彙が「ブランド品を買いたい」だとか「セックスで快楽を得たい」だとかいう拝金主義的かつ性的承認だということは「浅く薄っぺらい」考察だと言えるだろう。

 

 (つづく)

8月8日 某JKフェミニスト

 

冷凍餃子とポテサラにみる「家事労働」とは

 「冷凍餃子を焼いたのは手抜き」だと夫に言われた妻、「母親ならポテトサラダ作ったらどうだ」と男性に言われた母親。どちらにも共通するのは料理が手作りであるかでジャッジされるということであり、そのジャッジというのも「家事労働」に関するものである。

 

 「いかに家事が労働として評価されていないか、そして評価されないアンペイドワークが女性に押し付けられているか」がどちらのツイートにも潜んでいる。

 

 「いかに家事が労働として評価されていないか」は言い換えれば「家事は労働として評価されるべきものであるが、されていない」とも言える。「家事は労働である」というコンセンサスが成立するまでの道のりはそう簡単ではなかった。

 

 1970年代から1980年代にかけて、マルクス主義フェミニズムは「不払い労働」という概念を確立させた。不払い労働とは、「家事も労働である」「家事はアンペイドワークである」という意味を含む。

 

 前期マルクス主義フェミニズムでは不払い労働概念のもと、「家事労働に賃金を」という声まであがった。しかしその声に対しては「資本主義社会に於いて誰がどう家事労働を評価し、賃金を与えるのか」という問いも出てきた。 「なぜ資本主義社会において主婦労働の価値が認められないのか」という問いに、磯野富士子はこう答えている。

①主婦の家事労働が価値を生まないのは、家事労働が使用人や商売人によって行われているわけではないからである。

②夫の労働力が商品として売られるのであるから、妻の家事労働は「労働力という商品の生産」に寄与している。

③②より、家族員の労働が個人の労働として認められないことに起因しているのなら、主婦の家事労働が無償とされるのは、妻の身分のありかたに関連している。(妻の身分のありかたというのも、女性性が欠性対立の標準ではないということに起因している。次の記事で女性性について詳しく説明する)

④よって、家事労働は価値を生まないのではなく、生んでも価値を認められないのである。

 

「父は外で働いてお金を持ってくるが、母は家事をしているためお金を持ってこない。だから父と母は対等ではない」と、ここでの構図を表面的に捉えてしまうと、「主婦の家事労働は価値を生みだしていない」などと主婦の家事労働が透明化して語られてしまう。主婦の家事労働が透明化されたうえに、割に合わない無償の家事労働ももちろん透明化されることになるだろう。

 

 私はこの「主婦の家事労働の透明化」と「割に合わない無償の家事労働の透明化」こそが、ポテサラおじさんに「母親なら」と言わせ、夫に「冷凍餃子は手抜きだ」と言わせてしまったのだと痛感した。

 

 1980年代以降は女性の社会進出が進み、妻や母が「家事労働」「公的労働」の二重抑圧に悩まされてきた。それでもなお、家事労働の価値は透明化されてきたために、「夫と同じくらいの賃金を得たとしても妻は家事労働の負担をしなければならない」という構図を生んだのであろう。

 

 以前に比べれば、男性も家事労働をするようになり、女性だけに家事労働を負担させるということも少なくなってきた。しかしその裏側には未だに「家事労働は価値を生まない」という風潮があり、家事労働がアンペイド「ワーク」だということを意識しにくくなっている。

 

 冷凍餃子とポテサラ問題はある意味、家事労働の価値を再確認させられたツイートでもあった。このような家事労働の価値を再確認させるような声がさらにあがってほしいと願うばかりでなく、労働概念のジェンダー化についてはより議論してほしいところである。

 

8月7日 某JKフェミニスト