冷凍餃子とポテサラにみる「家事労働」とは

 「冷凍餃子を焼いたのは手抜き」だと夫に言われた妻、「母親ならポテトサラダ作ったらどうだ」と男性に言われた母親。どちらにも共通するのは料理が手作りであるかでジャッジされるということであり、そのジャッジというのも「家事労働」に関するものである。

 

 「いかに家事が労働として評価されていないか、そして評価されないアンペイドワークが女性に押し付けられているか」がどちらのツイートにも潜んでいる。

 

 「いかに家事が労働として評価されていないか」は言い換えれば「家事は労働として評価されるべきものであるが、されていない」とも言える。「家事は労働である」というコンセンサスが成立するまでの道のりはそう簡単ではなかった。

 

 1970年代から1980年代にかけて、マルクス主義フェミニズムは「不払い労働」という概念を確立させた。不払い労働とは、「家事も労働である」「家事はアンペイドワークである」という意味を含む。

 

 前期マルクス主義フェミニズムでは不払い労働概念のもと、「家事労働に賃金を」という声まであがった。しかしその声に対しては「資本主義社会に於いて誰がどう家事労働を評価し、賃金を与えるのか」という問いも出てきた。 「なぜ資本主義社会において主婦労働の価値が認められないのか」という問いに、磯野富士子はこう答えている。

①主婦の家事労働が価値を生まないのは、家事労働が使用人や商売人によって行われているわけではないからである。

②夫の労働力が商品として売られるのであるから、妻の家事労働は「労働力という商品の生産」に寄与している。

③②より、家族員の労働が個人の労働として認められないことに起因しているのなら、主婦の家事労働が無償とされるのは、妻の身分のありかたに関連している。(妻の身分のありかたというのも、女性性が欠性対立の標準ではないということに起因している。次の記事で女性性について詳しく説明する)

④よって、家事労働は価値を生まないのではなく、生んでも価値を認められないのである。

 

「父は外で働いてお金を持ってくるが、母は家事をしているためお金を持ってこない。だから父と母は対等ではない」と、ここでの構図を表面的に捉えてしまうと、「主婦の家事労働は価値を生みだしていない」などと主婦の家事労働が透明化して語られてしまう。主婦の家事労働が透明化されたうえに、割に合わない無償の家事労働ももちろん透明化されることになるだろう。

 

 私はこの「主婦の家事労働の透明化」と「割に合わない無償の家事労働の透明化」こそが、ポテサラおじさんに「母親なら」と言わせ、夫に「冷凍餃子は手抜きだ」と言わせてしまったのだと痛感した。

 

 1980年代以降は女性の社会進出が進み、妻や母が「家事労働」「公的労働」の二重抑圧に悩まされてきた。それでもなお、家事労働の価値は透明化されてきたために、「夫と同じくらいの賃金を得たとしても妻は家事労働の負担をしなければならない」という構図を生んだのであろう。

 

 以前に比べれば、男性も家事労働をするようになり、女性だけに家事労働を負担させるということも少なくなってきた。しかしその裏側には未だに「家事労働は価値を生まない」という風潮があり、家事労働がアンペイド「ワーク」だということを意識しにくくなっている。

 

 冷凍餃子とポテサラ問題はある意味、家事労働の価値を再確認させられたツイートでもあった。このような家事労働の価値を再確認させるような声がさらにあがってほしいと願うばかりでなく、労働概念のジェンダー化についてはより議論してほしいところである。

 

8月7日 某JKフェミニスト